木田元

かねがね、わたしは、日本の哲学者の態度は、ちょっと違うんじゃないかな、という気がしてなりませんでした。哲学者の元祖のソクラテスなんて相当人を食ったふざけた人間なのですが、日本の研究者はみんな真面目一本槍で、自分があたかも西洋人であるかのように思い込み、「哲学」という学問は素晴らしいものだと信じきっています。わたしもも哲学研究者の一人ですが、、哲学をやっているのは、ちょっとこれは違うな、と感じる人ばかりです。わたしとは、哲学へのアプローチが、はじめから少し違っているのかもしれません。 もともと「哲学」という言葉自体が、西周による明らかな誤訳なんです。ですから、「哲学」を後生大事にありがたがっている方がおかしいわけなんです。 「哲学」の直接の原語は英語のphilosophyあるいはそれに当たるオランダ語で、これは古代ギリシア語のphilosophiaの音をそのまま移したものです。philosophiaは、philein (愛する)という動詞と sophia (知恵ないし知識)という名詞を組み合わせてつくられた合成語であり、「知を愛すること」つまり「愛知」という意味です。 しかし、「愛知」という言葉を日常的に使うことは、これはこれでかなり不自然なことで、「哲学」を「愛知」にすればいいというものでもありません。実は、philosophiaという言葉自体も、古代ギリシアの中では複雑な経路を経て生まれたものでした。 この言葉は最初、紀元前6世紀頃のピュタゴラス教団の創始者が、ho philosophos「知識を愛する人」という形容詞として使いました。hoは男性の定冠詞です。形容詞に定冠詞を付けると、その性質をもった人間ないし物を意味するというあれですね。ピュタゴラスは、世界にはho philargyros「商人のように金銭を愛する人」とho philotimos「軍人のように名誉を愛する人」と、自分のような「知識を愛する人」の3種類の人がいると言っているのです。